鍋はおいしい

続けられない日記を続ける

寿司

わたしの趣味は映画鑑賞だ。

職場にも映画鑑賞が好きな人が一人、映画や本の話をするのが好きな人が一人いて、わたしはもっぱらその二人とよく話をする。今日は映画鑑賞が好きな方の先輩と一緒で、散り椿クワイエットプレイスを見たとか、旅猫リポートの試写に行ってきたとか、そういう話をしていた。

あちゃんは映画を見ても泣いたりしなそう。先輩がそう言って笑ってたけど、わたしは映画を見てめちゃくちゃ泣く。それはもう泣く。バスタオルが必要なくらい泣くことだってある。アルマゲドンは何回見たって鼻を真っ赤にするくらい鼻水を垂らしながら泣くし、この前はホビットを見ながらやっぱり世界は愛だと涙を流した。流したというより滝のようだった。

わたしは何に対しても泣く。泣き虫だと思う。
子供のころは映画を見て泣くことはなかった。親に怒られて泣くとか、転んだところが痛くて泣くとか、喧嘩していやになってしまって泣くとか、そういう泣きかたが多かったように思う。
大人になって泣きかたが変わった。親と言い合いになっても泣かない、どれだけ怪我をしようが痛いなと思うだけで泣かない、人と喧嘩しようが関係を続けるのが面倒になるだけで泣かない。ただ、映画を見てしこたま泣くのだ。ここぞとばかりに涙が出てくる。よっしゃ!俺らの出番や!と言ってるんじゃないか?と思うくらい涙が溢れてくる。

最近わたしがめちゃくちゃ涙したのは新感染という邦題がクソな韓国のゾンビ映画。めちゃくちゃ涙したというのが既にネタバレになっているような気がするのでこれ以上話には触れないが、小さな映画館でみんなが泣いてた。全員が鼻をぐすぐすさせていて、そうだよな泣くよな感動するよなと思っていた。
そんななか、わたしはひっくひっく言って、垂れてくる鼻水をすすりながら、肩を震わせて、ハンカチじゃおさまらねぇと思いながら泣いた。どれだけ泣いたかというと同じタイミングで映画館を出たおばさんにティッシュを渡されて少しだけ映画の話をしたくらいには泣いた。

わたしは普段感情の機微が出ないように思われているようで、それはそうしようとわたしが努めている部分もあるんだけれど、だから映画や本に心を動かされることがないように思われているんだろうな。
実際のわたしは映画と本に動かされっぱなし、人の言葉のひとつで狼狽えるし塞ぎ込む、彼氏とうまく連絡が取れないだけでもうダメだと思って生きるのをやめたくなる。職場の人たちに映るわたしはこういうのと無縁な人間なんだろうな。
と、しみじみ思ったのが今日でした。
しょっちゅう泣くわたしをみんなに見せる必要は無くて、その人に知ってほしいところだけ見せるので十分だ。